新学習指導要領 〜教育新動向〜

学力の本質について考える
東京工業大学 教育工学開発センター教授 赤堀侃司(あかほり・かんじ)先生
八戸市教育委員会総合教育センター指導主事 戸来忠雄(へらい・ただお)先生

PISA(OECD(経済協力開発機構)による生徒の学習到達度調査)の結果が発表され、改めて注目を集めることになった学力問題。2004年12月の発表以来、いまだに多くの議論を巻き起こしているが、そもそも学力とは何を指すのか。それは本当に低下しているのか。また、問題があるとすればそれはなぜ起こり、どうすれば解決することができるのだろうか。

今回の「気になる話題」では、赤堀侃司先生(東京工業大学教授)を聞き手に、戸来忠雄先生(八戸市総合教育センター指導主事)から、学力問題の本質と克服について語っていただいた。

数値化できる学力ではなく
子どもの状態を観る

対談中の戸来先生

「そもそもこれまで一般的に「学力」と呼ばれてきたものは、測定できる、数値化しやすい力のことだったように思うんです」戸来先生はこう切り出した。
「数値評価になじまない力というのはいくらもあるわけです。ですが、評価が数値で下される以上、教育の目標がそこへ行かざるを得なくなるんですね。本当に身につけさせたいこととは別に、評価の数値を高めるための授業改善になっていく危険はないだろうか──そんな危惧が大いにあります」

「確かにそうですね。そこにある学力を測るための評価が、逆に評価しうるものだけが『ある』とされることで、学びを規定したり、スポイルしてしまっている面は否めないと思います」と赤堀先生。つまり評価論無しに学力は語れない、というわけだ。

戸来先生は言う。
「そもそも教師の教師たるゆえんは、子どもの力や心の状態を認識する力にあるんじゃないでしょうか」

単なる知識の伝達なら、その知識を持っている人なら誰でもできること。そこにとどまらず、深い関わり合いを子どもとの間に築き、刻々と変化する子どもの状態を把握しつつ、絶妙なタイミングで指導や支援を行って、子どもの力を引き出す。それこそが教師に求められている力だというのが戸来先生の主張だ。

この「刻々変化する子どもの状態」を把握することに評価のひとつの本質があるとすれば、それが学習の後にその結果を測る試験だけで達成できるものでないことは明らかだろう。

基礎基本とは
与えられる知識ではない

対談中の赤堀先生

ここで赤堀先生から問いが投げかけられた。
「評価と学力についての戸来先生のご意見には大変うなずける点が多いですね。とは言え一方で、それがすべてではないにせよ学力低下を指摘するデータや声があって、教育現場としてはそれに対応せざるを得ない現実があります。先生はこうした状況に、いかにして対処すべきだとお考えでしょうか」

「現在、学力低下への対策として検討されているのは、いわゆる受験対象教科の授業時間数拡大による《基礎基本》の定着ですね。ですが私は、ここでいう基礎基本の考え方にも違和感を持っているんですよ」と戸来先生。

確かに、古くから基礎基本というと読み書きそろばんを指すと考えられてきた。したがってどうしても国語算数など受験対象教科の時間を増やせという議論になってくることになる。戸来先生はさらに続けた。

「ですが私は、本当の基礎基本とはそうした個々の教科に即したところにあるのではなくて、そのさらに下にある地下プレートのような一枚の岩みたいなものだと考えています。それは人間形成の初期段階での基礎基本というべきものかもしれません」

ここで戸来先生の言う「地下プレートのような一枚の岩」とはどのようなものなのだろうか。それは一口に言うなら、生きる体験とでもいうべきもののようだ。

「知識という名の答えを教えるのではなくて、問題や課題にぶつかる体験を数多く積ませること。答えばかりではなくて「なぜ」「どうして」という疑問を子どもの中にため込むこと。実際の成功と失敗を身をもって体験することが、人間形成の初期段階に必要な《基礎基本》になると思うんです」
「体験に根ざしたしっかりとした土台で子どもたちを支えてあげる。もちろんすべてを体験させることはできませんが、基礎基本の源を体験に置き、それを土台にした上でしかるべき知識や刺激を与えたとき、子どもの可能性が花開き、気づきや感動が起こると私は思っているのです」

「なるほど、そうした体験に根ざしていない知識は、テストの点にはつながるかもしれないけれど、それ以上の実りが得にくいということなんでしょうね。何のために学ぶのかという目的意識も育ちにくい。確かにそう感じますね」と赤堀先生。

これまで「学ぶ上での基礎知識=基礎基本」とされてきた。しかしその知識が、他者から注入された知識であってはダメだと戸来先生は言う。生活や学習の根幹となる知識が他者から与えられたものであるか、自らつかみ取ったものであるかの違いは決して小さくないはずだ。