一太郎はこうして生まれた

発売から25周年を迎えた、日本語ワードプロセッサ「一太郎」
誕生までのストーリーをご紹介いたします(全2回)。

※1995年発行に発行された書籍「株式会社ジャストシステム 『一太郎』を生んだ戦略と文化」
 (高橋範夫著:株式会社光栄発行)の内容を抜粋し、一部加筆・修正したものです。
第1回:ジャストシステム創業、日本語処理システムの開発

時代の胎動

 浮川は両親のことを考え、関西の会社という条件で、教授に就職先を紹介してもらった。姫路市を本拠とする東芝グループの重電メーカー「西芝電機」に就職し、制御装置などのエンジニアになった。
 一方初子は、「コンピュータ・ソフトを制作する仕事をしたい」と決めていたので、東京の外資系コンピュータ・メーカー「高千穂バロース」(日本ユニシスの前身)に就職。同社研究所のプログラマーになった。
 プログラマーとはいっても、73年当時の日本には、ソフトウェア専門の会社はなかった。コンピュータといえば、メインフレームと呼ばれる大型マシンの時代で、ソフトはハードの付属品であった。初子はそうした大型コンピュータのOS(基本ソフト)をつくる仕事に携わった。
 アメリカ製のコンピュータを、日本の銀行などに導入できるようなシステムを開発するのが研究所の仕事だった。初子自身は、コンパイラなど、コンピュータ言語処理の部分を担当していたが、他のセクションでは漢字人力装置やプリンタなどを扱っていた。「そういう研究所にいたので、漢字を扱えたらもっとわかりやすいのに、やはり日本語処理をやりたいな、やらなければいけないという問題意識だけはもっていました。当時、この会社にいた人が、たくさん独立して、現在プリンタ会社などをつくっているんですよ」
 浮川の東京通いが始まった。当時のことを、週刊朝日(93年10月8日号)が『元祖(?)シンデレラボーイ・エクスプレス』と銘打って紹介している。「僕が彼女に会いに東京へ行くんですが、月に一回、給料をもらった週の金曜に最終の新幹線に乗って、夜中の一時頃東京に着くパターン。土、日かけて遊んで、日曜の最終で姫路に帰ってくる。当時は初任給が六万円くらいですから、散財して帰ってくると二、三千円しか残ってなくて。それで後の1ヵ月を暮らしました。寮に入っていたから、なんとかなった」
 そんな浮川を初子は、優しい兄のように思っていた。「遠距離恋愛」を1年半ほど続けた後、2人は結婚を決めた。
 しかし、養子をとりたいと考えていた初子の家族が結婚に反対した。浮川も長男だから養子にはなれない。家族みんなに反対され、初子は相当悩んだ。が、結局半年かかって家族を説得した。「両親も最後には、根負けしたようです」と初子。


株式会社ジャストシステム 元副会長 浮川初子

 75年1月15日、2人は高松市で結婚式を挙げた。初子は高千穂バロースを退社し、姫路の西芝電機の社宅に移り住んだ。
 初子はとりあえず専業主婦になったが、浮川を送り出すだけの生活は暇でしょうがない。
 その頃ちょうど、12ビットのマイクロコンピュー夕が出ていた。東芝系の会社にいた浮川が、「これのアセンブラ(プログラム言語の一種)を書くんだけど、一緒に仕事をしない」と誘った。
初子はその気になり、浮川と一緒にアセンブラの本を読んで勉強した。
 ところが浮川の会社には、女性のエンジニアは採用しないという方針があった。そこで初子は、1年ほどして、地元のコンピュータ販売会社に勤めることになるのだが、初子が西芝電機に勤めていたら、いまのジャストシステムはなかったかもしれない。
 職探しに苦労はなかった。企業がオフィス・コンピュータ(オフコン)を導入し始めた頃で、ソフトウェアの技術者は慢性的に不足していた。人材銀行にプログラマーとして登録すると、一カ月もしないうちに、地元のオフコン販売会社からお呼びがかかった。
 中小企業にオフコンを売るということは、ハードの納入だけではすまされない。その会社がコンピュータを使えるように、会社の事業に合ったソフトウェアを開発して、操作方法を指導しなくてはならない。
 新しい会社にはソフト開発者がいなかったため、初子にその仕事が回ってきた。顧客企業のためにシステムをゼロから開発し、オフコン導入の指導をするといった仕事が、24歳の女性1人に任されたのである。「釣具屋さんやストアのシステムをつくったり、経理システム、販売管理システムなど、いろんなことをやりました」
 初子が休日に顧客企業に出向くときには、浮川が車で送り迎えした。才能ある女房を、夫がマネージャーとしてサポートしている、といった趣である。
 お互いに忙しい夫婦生活が続いた。
 浮川は初子から「今度こんな会社にオフコンを導入しているんだけど……」と、よく仕事の相談を受けた。
 企業のコンピュータ・システムを開発するには、会社経営の知識が必要である。ところが2人とも工学部出身だから、貸借対照表や損益分岐点といった経営のことは全然わからない。そこで本を買って、一緒に勉強をした。「私の仕事を見て浮川は、コンピュータは一般の社会でも広く使われるものなんだなと知ったのだと思う」と初子。
 浮川は船舶用の電気設備に関わっていたが、一方で特許の調査も任されていた。特許資料を調べて、仕事に関係のありそうなものをピックアップし、レポートにまとめて部長に提出していた。その仕事をしていると、コンピュータに関係するものが、ものすごく目についた。
 子会社だったから、東芝の研究開発関係の資料がとくに多かった。東芝は後に日本語ワープロの第1号機を作るメーカーである(東芝は1978年、日本初のワープロ「JW-10」を630万円で発売した)。浮川が目にした資料の中でも、漢字オフィスコンピュータやコンピュータの漢字処理技術に関するものが目立っていた。
 「コンピュータで漢字処理をする技術があってね……」
 浮川は家に帰ると、そんな話を初子にしていた。
 コンピュータ、ソフトウェア、漢字処理、会社経営……。こうした話題がのぼる家庭だった。浮川も初子も第一線で最先端の技術に触れ、時代の潮流を肌で感じていた。しかし、それが直接、会社を設立する動機にはならなかった。当時、そんなことはまったく考えていなかった。

 78年、浮川は29歳になっていた。相変わらず、エンジニアとして図面を引いていたある日、初子から相談を受けた。「会社の仲間が4、5人で独立して、会社をつくるんだけど、私も誘われているのよ」
 浮川はその話を聞いて、「会社って、そんなに簡単につくれるのか」と思ったが、とにかくその会社の社長になる人に会ってみた。そして刺激を受けた。「株式会社のつくり方」といった本を買って、読んでみた。独立という言葉が実感を帯びて、視界に入ってきた。
 浮川自身も社会人としての経験を積み、会社や社会のことを自分の物差しでとらえられるようになりつつあった。
 会社といえば大企業ばかり目立っているが、実際の社会では中小企業が圧倒的に多い。日本経済を支えているのは、そういう企業ではないのか。
 毎日図面に向かっている自分に比べて、初子のいるコンピュータ業界は、時代の風をダイレクトに受けて、めまぐるしく動いている。自分は世の中のことをわかっているつもりだったが、実は何もわかっていなかったんじゃないか。
 初子の仕事の話を聞くうちに、浮川はそう気づかされた。
 加えて、浮川自身もコンピュータと接触する機会があった。船舶用クレーンの制御を通じて、コンピュータは身近なところにあった。また会社の先輩が、12ビットのマイクロプロセッサを使ったマイコンを開発して、その応用や試験を頼まれたこともある。いろいろやっているうちに、「世の中はコンピュータに向かってどんどん流れている。いままさに激しく動いているんだ」
と、一層強く感じるようになった。

一太郎はこうして生まれた

 
スペシャルコンテンツTOP