※1995年発行に発行された書籍「株式会社ジャストシステム 『一太郎』を生んだ戦略と文化」
(高橋範夫著:株式会社光栄発行)の内容を抜粋し、一部加筆・修正したものです。
第1回:ジャストシステム創業、日本語処理システムの開発
しかし、では何かできるんだ。自分にできることがあるのかと考えたとき、浮川はあるイメージを思い浮かべた。
目の前に激しく流れる川がある。その流れは間違いなく、世の中を突き動かそうとしている。自分はそれを知っているのだが、堤防に立って、「すごい、すごい」と、見ている傍観者でしかない。流れの中に入れば、溺れるかもしれない。でも、どうせならば自分も、あの中に入ってみたい。
そんなとき、初子の相談を受けて、刺激を受けないはずはない。
しかし、人生を決めるような決断は普通、理念だけでは行われない。考えはするが、実行しない人がほとんどである。決断には、本人に直接関わる動機が必要である。浮川にとってのそれは、家族のことだった。
長男と長女の夫婦だから、両方の親の面倒をみなくてはならない。それには自分の給料だけでは、部長になっても無理だ。チャンスがあれば独立して、自分で稼ぐしかないのではないか。
ちょうどその頃、浮川の妹夫婦が新居浜の両親のもとで、住むようになった。これで浮川が初子の実家に行くのが可能になり、独立も具現化していった。
直接のきっかけは、80歳をすぎた初子のおばあちゃんの言葉だった。「おまえたちも、徳島に帰って、コンピュータというのをやったらどうだ」おばあちゃんは米屋の娘で、親戚中で唯一、商売根性のある人だった。2人はこの誘いに乗り、独立を決めた。
会社を興したのは、基本的には浮川の希望だったが、徳島に帰る手段だったから、初子も反対ではなかった。ソフトウェア会社の難しさをよく知っていた初子は、大変だけどもやってみようと決意した。
そんなに迷わなかったが、計算もあった。29歳だった浮川は、翌順までに人生のレールを決めようと思っていた。あと5年間は猶予がある。3年やって駄目なら、また就職すればいい、とも考えていた。
後先を考えず突進するタイプではない。あくまで慎重である。が、同時に、浮川には時代を的確に見る目と、夢を希求する精神があったようだ。
このとき浮川は、坂本龍馬とその時代のイメージを、鮮明に思い浮かべた。
田圃を耕している私の前を、坂本龍馬が走っていく。そのとき、思ったんです。いま鍬を放り投げて、あとについて行けば、自分も時代の変革に加われるんだ。
いま世界を動かすのは経済である。そしてコンピュータは、これからの社会を激変させるきっかけとなる。コンピュータ事業に関わることは、浮川にとってまさに、明治維新の時代、坂本龍馬について行くようなものだった。
もちろん、自分が龍馬になれるとは思っていなかったが、とにかく参加したい。川の流れに身を投じたいという気持ちが優先した。
「踊るあほうに見るあほう、同じあほなら踊らにゃそんそん」
徳島名物、阿波踊りのはやし言葉を、浮川はまさに実感した。
浮川は高校野球が好きだ。甲子園で四国の学校が活躍していると、テレビにかじりついて応援する。その高校野球を例に挙げて、次のように説く。「高校野球には応援する人と、プレイする人がいます。もちろん、応援する側にも感動は伝わりますが、プレイする人ほどではない。試合に勝った喜びは、プレイした人の方が10倍も100倍も、強く感じられると思うんです。だったら、観客席にいるより、グラウンドに立つべきじゃないか。何でもやってみて、苦労すればいい。その方が人格的にも、すばらしい人間になれますよ」
どのたとえも、同じ思想のバリエーションである。評論家よりも自ら行動する人間になりたい。
当時の浮川の信条である。