一太郎はこうして生まれた

発売から25周年を迎えた、日本語ワードプロセッサ「一太郎」
誕生までのストーリーをご紹介いたします(全2回)。

※1995年発行に発行された書籍「株式会社ジャストシステム 『一太郎』を生んだ戦略と文化」
 (高橋範夫著:株式会社光栄発行)の内容を抜粋し、一部加筆・修正したものです。
第2回:「太郎」への思い

JS‐WORD誕生

株式会社ジャストシステム 現 代表取締役社長 福良伴昭

 福良は徳島大学歯学部の2年生だった。2年から3年の専門課程に上がるときに留年した。アルバイトをしながら、専門課程にいくための単位を取るつもりだった。その頃、アルバイトで貯めたお金で、NECのパソコン、PC−8800を手に入れた。
 ゲームソフトや雑誌の付録プログラムなどで、パソコンを動かしていたが、人がつくったソフトウェアで遊ぶだけでは、どうにも満足できなくなった。自分でもソフトウェアをつくってみたい、もっとおもしろいものができるんじゃないかな、と思っていた。
 添付してあるベーシックのマニュアルはすぐに理解できたが、それでは速度が遅いという問題があった。当時マシン語と呼んでいたコンピュータ言語の情報が欲しかった。ちょっとした説明書でもあれば、できそうな気がしたが、福良の周囲には、そうした情報が全然なかった。
 誰か教えてくれないかと思っていたところ、ジャストシステムでアルバイトをしていた大学の友人が、「あそこに行けば、けっこういろんなことを教えてくれるよ」と、教えてくれた。そこで福良は、その友人について行った。
「初めて会社に行ったとき、社長がちょうど北海道に出張してまして、ぼくは入れてもらうとか、そういう約束もせずに、隅の円椅子にちょこっと座って、どんなことをしているのかなと、大人しく見ていたんです。2、3日して社長が帰ってきたとき、あれ、こいつ誰なんだ、といわれました。
 でも専務の浮川が、ちょっとやってみなさいと、課題を与えてくれてまして、アルバイトの契約もしてなかったんですが、けっこういい結果を出せたので、もう少しやってみようかと、どんどん続いていったんです」
 初子が最初に与えた課題は、マルチプランのスプレッドシートで、ちょっとした応用のフォームをつくることだった。福良は基本的なことを教わっただけで、それをあっという間に作成して、初子を驚かせた。
 初子は、吸収力のある福良に、何かおもしろいターゲットを与えてやらなければと思った。
「たまたま浮川に、日本語処理、日本語処理と耳にタコができるくらいいわれていたんで、日本語変換システムを手伝ってもらうことにしたんです。もしもあのとき、私が福良さんにゲームソフトをつくらせていたら、ジャストシステムはゲーム会社になっていたかもしれませんね(笑)」
 こうして福良は、日本語変換システムを手伝うことになった。「しばらくして、社長がもっと汎用的に使えるパッケージソフトをつくってみたい。どうせつくるんなら、一番使われるワープロをつくろうという話になり、専務が日本語変換システムを担当し、ぼくは編集系のプログラムを担当した」
 初子は「彼のプログラミングの感性は繊細にして緻密、天才的だった」と福良の才能を評価している。ジャストシステムは、福良の加入により、ワープロソフトを作成する原動力を得たのである。

 83年3月に開発を始め、5月にはワープロソフトの試作品「光」ができた。これに注目したのが、潟Aスキー(当時のアスキーマイクロソフト)だった。アスキーが、「光」をNEC(日本電気)に売り込んでくれたおかげで、NECの最新パソコン「PC‐100」に標準装備するワープロソフトの依頼が舞い込んだ。
 浮川は飛び上がらんばかりに喜び、そして驚いた。「日本を任せるといわれた気がした」ほどの衝撃だった。事実、ジャストシステムはここから始まったといえるほど、大きなきっかけだった。不特定多数のユーザーに向けて製品を開発することは、開発者にとって革命的なことだった、と初子はいう。

 ジャストシステム初のワープロソフト「JS-WORD」の開発に着手したのは83年7月、出荷日は83年10月。猶予は3ヵ月しかなかった(福良によると、8月にはJS‐WORDができたという)。福良は6月に正社員になったが、そのときはまだ大学を辞めていなかった。実質は会社員だったが、とりあえず、ぎりぎりまで大学に籍を置いていた。
 JS‐WORDはマウスで操作するワープロだった。「アスキーの人が、こんなおもしろいものがあるよと、マウスを持ち込んできた。じゃあそれを使ってみようかとなって、つくったんです」(福良)

 83年の夏を、浮川は忘れられない。5人足らずの社員が、大きな仕事と夢をもって奮闘していた。ソフト開発の最後の追い込みに、お盆休みも返上して、毛布を持ち込み、徹夜の毎日だった。48時間ぶっ続けで仕事をすることもあった。
 当時のオフィスは、前の通りが阿波踊りの演舞場だった。初子をはじめ4人のプログラマーが開発に没頭するすぐ下で、賑やかな音楽と、はやし言葉が聞こえてくる。
 − 踊るあほうに見るあほう、同じあほなら踊らにゃそんそん −
 浮川は、キーボードに向かいっぱなしの開発メンバーの食事の差し入れなど、身の回りの世話をし、「がんばれ、がんばれ」と激励しながら、心の中で思っていた。
 『この時期を乗りきって、みんなで踊りに参加できるような会社になりたい』
 この時期、福良にとっても忘れられない思い出がある。開発に追われる日々のなか、浮川と初子、福良の3人で東京に出張したことがあった。その夜、3人は赤坂プリンスホテルの最上階で食事をした。
 超高層ビルの下には、東京の夜景が広がっていた。光の海を眺めて、浮川がいった。「これだけ多くの人が住んでいるんだから、ぼくらのワープロもたくさんの人が使ってくれる日が、きっとくるよ。そのとき、ジャストシステムは日本一になる」
 熱気を帯びた浮川の言葉を、福良は何年たっても忘れられなかった。

一太郎はこうして生まれた

 
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