名前を「太郎」としたのには、理由がある。以前から、日本語名をつけたいと考えていた浮川だが、ふと浮かんだのが、この名前だった。
浮川が大学生のとき家庭教師をしていた中学生の名前が「太朗」君だった。太朗君はもともと心臓が弱かったが、勉強好きで、浮川をよく慕ってくれていた。彼は、浮川が会社をつくったばかりの頃、心臓マヒで世を去った。
オフコンが売れず、落胆して家に帰った浮川は太朗君の訃報を聞き、ものすごく落ち込んだ。彼の無念さ、自分の無念さをかみしめた日の記憶が、このとき甦ったのである。
「太郎」の文字は、広告代理店から、いくつかのロゴ案をもらっていたが、どれも気に入らず、浮川が自分で書いてしまった。浮川が書いた毛筆の「太郎」の文字は、Ver.4.3まで、そのパッケージデザインとして採用された。
jX-WORD太郎は、発売と同時にベストセラーの1位になった。月間販売数1,000本でもすごいといわれた時代に、発売5ヵ月で9,700本を出荷。ジャストシステムの名は一躍、業界に知れ渡った。
初代一太郎パッケージ
ジャストシステムはjX-WORD太郎の成功に酔う間もなく、すぐに次作の開発にとりかかった。開発部としては、やり残したことはたくさんある、もっといいものができるという意識があった。前作「太郎」の名前は、サンヨーの掃除機の商品名とバッティングしていた。ソフトウェアの商標は、電気製品と同じ部類になっていたので、これが問題になった。サンヨー側は当初、うちの商品は掃除機で、ソフトウェアと間違えることはないから、かまわないといっていた。ところが、たまたまサンヨーが沖電気に、太郎の商標を貸すことになり、太郎の名前は使えなくなった。
浮川は頭をひねった。いろいろ考えているうち、「新太郎」という名前が浮かんだ。だが、新太郎では、将来バージョンアップして旧バージョンになったときに具合か悪い。そこで、「日本一になれ」という思いを込めて、「一太郎」とした。
徳島新聞1985年8月15日掲載
一太郎は発売と同時に、前作を凌ぐ勢いで売れ、月間3000本を達成。1年足らずの間に3万本を売った。
太郎から一太郎への主な改良点は、日本語変換システム「ATOK4」を、本体のワープロから切り離せるようにしたことだ。これによりユーザーは、一太郎以外のアプリケーション(表計算ソフト、通信ソフトなど)を使用する場合にも、一太郎の日本語変換システムを利用できるようになった。一太郎がユーザーの支持を得たのには、この他にもさまざまな理由があった。
まずワープロの基本である日本語変換機能がすぐれていた。ATOKが賢かったのである。熟語変換の製品が多かった当時、いち早く複合連文節変換方式を採用し、日本語変換効率の高さは、当初から高い評価を受けていた。「何が違うかというと、普通の人が使っている言葉をちゃんと解析できるようにチューニングしてるんです。アルゴリズムも違うし、辞書も違うし、そういうトータルな力が違うなと思っている」と初子がいう通り、ATOKの高い性能により、「日本語のジャストシステム」という評判が、徐々に高まっていくことになる。
まだベーシックのソフトウェアが多かった時代に、世界標準のオペレーティング・システム(OS=パソコンの基本ソフト)になりつつあったMS-DOSを、いち早くバンドリング(内蔵)していたのもよかった。ユーザーは一太郎を買うだけで、基本ソフトが手に入ったのである。
文書ファイルとして、MS-DOSのテキストファイルをそのまま使ったのも一太郎の特徴だが、これには他のアプリケーションとのデータ交換が容易にできるメリットがあった。
5万8000円の価格も手ごろだった。もっと安い商品もあるにはあったが、他の有力ソフトは、9万8000円の価格で発売していた。
細かい分析はいろいろできるが、一言でいえば一太郎は、ユーザーに開発者の心を伝えるのに最も成功した。
一太郎には、開発者の親心とでもいえるような、繊細な心遣いが随所にある。それが、やさしい操作性として、ユーザーに認識されている。
たとえば、入力した文字を漢字に変換するキーをスペースキーに割り当てている。キーボードには変換キーがあるにも関わらず、プログラムでスペースキーを使えるようにしてある。これは英文を打つとき、単語間にスペースを入れるのと、日本語入力時の文節ごとの変換を同じように扱うのが、最も自然で日本人の感覚に近いと考えたからである。
指の配置から考えても、最も多用する変換機能をスペースキーに割り当てるのは理にかなっている。「やさしい」だけでなく、機能的なのである。
一太郎にはコマンド入力時に、なるべく機能キー(キーボード上段のキー)は使わないという方針があった。これは、「タイプ入力のベテランは、遠くにある機能キーを1タッチする間に、近くのキーは4タッチできる」という分析からだ。
エスケープキーを押すとコマンドメニューが出るスタイルは、こうした発想から確立された。メニューが画面の下に表示されるのは、文書作成時、ほとんど画面の最下部を見ているユーザーに視線を移動させないメリットがあった。機能キーを多用しないスタイルは、将来パソコンとキーボードが小型化した場合にも対応しやすい。一太郎は当初から、ハードウェアに依存せず、細かい操作性にまで気を配っていた。
文章を書くとき、文書名を決めることなく、即座に書き始められ、文書を保存するときに文書名を決める手順になっている。これも一太郎が最初に導入した方法である。
他のワープロソフトではそうはいかなかった。文章を書く前に、まず文書名を決めて、それから書く必要があった。そうした方が、プログラム的にはやさしいのだが、一般のユーザーにとっては、書きたいときにパッと書ける方が自然である。
ヒットの要因をもう一つつけ加えるとすれば、そのネーミングである。「一太郎」という名前は、温かみがあって、一度聞けば忘れられない。そして、製品の内容が、この名称に不思議なくらいマッチしていた。一太郎は85年度「日経・年間優秀製品賞」を受賞した。
地方の弱小メーカーが発売した一太郎が、急増していた98ユーザーを取り込んだのは、これらを総合的に考えると、自然な帰結だった。
(終わり)