一太郎はこうして生まれた

発売から25周年を迎えた、日本語ワードプロセッサ「一太郎」
誕生までのストーリーをご紹介いたします(全2回)。

※1995年に発行された書籍「株式会社ジャストシステム 『一太郎』を生んだ戦略と文化」
 (高橋範夫著:株式会社光栄発行)の内容を抜粋し、一部加筆・修正したものです。
第1回:ジャストシステム創業、日本語処理システムの開発

第2回「太郎」への思いへ>>

大学時代の出会い

 ジャストシステムを創業した浮川和宣は1949年5月5日、愛媛県新居浜市で生まれた。父は地元企業の技術者、母は市役所に勤めていた。


株式会社ジャストシステム 元会長 浮川和宣

 浮川は2人兄妹の長男で、幼い頃から図面を描いたり、ものを作るのが好きだった。といっても、奇想天外な名案を連発するタイプではない。それより「何か問題で、それを解決するには、どうすればいいか」といった問題摘出が得意な、ものわかりのいい優等生だった。
 浮川は高校卒業後、1年浪人して国立愛媛大学工学部「電気工学科」に入学した。父親の体が弱かったため、進学には経済的な面を考慮しなければならなかった。育英会の特別奨学制度を利用するつもりだったので、資格のなくなる2浪は許されない。背水の陣で、合格確実な地元の大学を選んだ。
 もともと建築や機械の方が好きだったが、音楽好きだったことが、電気工学科を選ぶ動機になった。本当は音楽をやりたかったが、専門教育も受けていないし、この世界ではもっとすごい才能をもっている人がいっぱいいる。自分は音楽のプロにはなれないが、電気をやれば将来、音楽との接点を見いだせるのではないか。そう思ったのである。
 将来会社をつくるとは、夢にも思っていなかった。親戚にも商売人はいなかったし、子供の頃は「学校の先生になればいい」といわれていた。大学を卒業したら、普通のサラリーマンになるんだと思っていた。
 浮川(旧姓橋本)初子(元代表取締役専務)は1951年3月、徳島市に4代続いた女系家族の長女として生まれる。父は百十四銀行に勤めていた。
 子供の頃、家庭教師が勉強のおもしろさを教えてくれた。とくに算数が得意になり、中学、高校でも数学の成績は抜群だった。国語は苦手だった。
 母親から「女性も仕事をもつべきだ」という教育を受けてきた初子は、将来自分が両親やおばあちゃんの面倒をみるのだと思う、責任感の強い少女だった。「仕事をもつことに関しては、ごく自然に思っていました。母が、自分が仕事をもっていなかったから、私は、長女だったこともあり、あなたはちゃんと仕事をするのよと言い聞かされていたんです。
 また高校時代の同級生は、理系のクラスだから女の子はクラスに7、8人しかいなかったんですが、みんな女性でも仕事をもとうという人ばかりでした。だから、働くことへの違和感は全然なかったですね」
 一家を背負わなければという思いが、初子をコンピュータに向かわせた。プログラマーになろうと決めたのは、高校生のときだ。

 当時のコンピュータはすべて、大きな機械だった。プログラマーは紙と鉛筆でプログラムを書いて、カードにパンチを打ってといった仕事をしていた。「進路を決めるとき、説明書に、力仕事でないので女性にもできると書いてあったので、それならいいなと思ったんです。それと、理系の女性の職業があまりなかった。学校の先生は向いてない。薬剤師も向いてない。生物は嫌いで、国語は得意じゃなかったですから。それで、どちらかというと論理の世界が好きだったので、コンピュータはこれからの分野だからやってみたいなと。コンピュータを見たことも触ったこともないのに、そう決めたんです。ただ、銀行に勤めていた父が、その頃コンピュータの導入を担当していた関係で、コンピュータが便利なものだとは聞いていました」
 こうして初子は、その年タイミングよく愛媛大学工学部に新設された「電子工学科」に進学した。コンピュータは理系でも最も新しいジャンル。この学科に入った女性は初子一人だった。
 
 浮川と初子が、工学部に入学した1969年、大学紛争の嵐が、全国に広まっていた。愛媛大学もロックアウト状態で講義どころでなく、入学して半年以上、授業がなかった。「地方都市で騒いでもしょうがない」と思っていた大半の学生は、暇を持て余していた。
 浮川は、ばらばらになっていたクラスのみんなの名簿を作り、定期的に集まろう、と音頭をとった。工学部の仲間たちが下宿や喫茶店に集まり、雑談する日々が続いた。その中に初子もいた。
 ある日、大学近くの喫茶店で、初子はこんなことをいった。「うちは4代続く女系家族だから、長女の私が家を継がなければならない。そのために電子工学科に入ったの」
 浮川は驚いた。家族を思う気持ちはわかるが、まだ18歳なのに、そんなに責任感をもたなくてもいいではないか。「これは解放してやらなければ」と思った。
 初子には、プログラマーとしての才能があった。卒論は、コンピュータ言語のプログラムを機械語に一括翻訳するソフトの試作であったが、その内容は、浮川に「大学生とは思えない」
といわせる高度なものだった。
 学生時代、交際を続けてきた2人は、次第に結婚を意識するようになる。就職活動を始める頃、浮川は「将来結婚できたらいいね」と、初子にプロポーズしていた。しかし、就職先は離ればなれになった。

一太郎はこうして生まれた

 
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